2017-11

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自治体職員の能力

  自治体職員の能力.

1 能力が問われる時代
 なぜ自治体職員の能力が問われるのか。
これまでながらく、自治体職員は省庁政策を末端で執行する受動的な地方公務員であった。明治以来の機関委任事務制度のために、自治体は政策を策定し実行する地方政府ではなかったのである。
だが、焼け野原の戦災復興から半世紀が経過して、地域課題が基盤整備から潤いのある人間的なまちづくりに移行した。基盤整備が主要課題のときには、省庁政策は画一ではあっても均一に地域の基盤整備がすすんだと評価できたかもしれない。しかしながら、社会の成熟によって生じてくる質的公共課題は、全国画一の省庁政策では解決できない。地域独自に課題を設定し行政技術をも開発しなければ安心して暮らせる魅力あるまちにはならない。
 自治体職員の政策能力によってまちづくりに格差が出る時代になった。だから自治体職員の能力が問われるのである。

2 いかなる能カが求められているのか
 言葉でならば、「まちづくりへの情熱と意欲」「政策構想力・企画力・計画能力」「能動的積極性」「豊かな感性」「住民ニーズを的確にキャッチする直観力」「柔軟な対応能力と指導力」「利害調整の能力」と、いくらでも並べることは出来る。だが、言葉を列挙するだけでは無意味である。
 求められているのは、住み心地のよい文化的なまちをつくる能力であるのだが、地方公務員はそのような仕事の仕方をしてきていない。そしてまた、現在の行政手法と行政技術では住み心地のよい人間的なまちはつくれない。
住んでいる人びとの心の内にまちへの愛情と誇りの感情が育たなければ人間的なまちにならない。ところが、これまでの行政は住民を行政サービスの受益者としてきた。行政が政策執行の主体で住民は客体であった。組織運営にも事業執行にもこの統治行政の考え方が貫徹しているのである。
 首長も職員も「まちづくりの主人公は住民の皆様です」と言葉では言う。けれども「事業や制度は行政内で立案し決定し行政が執行するものである、それに何の問題があるか」と思っている。行政法の理論がこの統治行政の考え方を支持するのである。行政内の管理職の人達は「政策の立案や執行に住民が関与してくるなどということはあってはならない」「住民参加は理念であって住民参加制度もそれ以上のものであってはならない」と本心では思っているのである。だから、参加制度は形式的であり形骸化しているのである。
 地方公務員には政策を自前で策定し実行する機会が殆どなかった。政策課題は上から降りてくると考えてきた。行政とは法律の執行であると教えられた。長い間、自身を地方公務員と名乗り末端行政職員の意識を自身の内部に蓄積してきたのである。したがって、これらのことを自覚的に眺め返さなければ、能力を言葉で列挙するだけでは意味がない。意味がないだけでなく、美しい言葉や文章を発表するだけの「先進自治体」が存在して、それを無責任なメディアがもてはやしている現状を思うならば有害ですらある。
 例えば、「政策構想能力」が必要だというとき、それを言っている当の本人に、政策を構想し壁を越えて実現した何らかの体験がなければ、その言説は無意味である。かつて「行政の文化化とは何か」の論議のときに、「文化に行政を」が文化行政で、「行政に文化を」が行政の文化化であると説明された。そのような語呂合わせの説明では「行政の文化化」が提起している原理的な問題意識は何も見えない。それと同じであって、自治体職員に求められている能力とは何かを考えるとき、たんに言葉を列挙するだけは無意味である。それはまた、政策策定と政策実行の行政現場の実態がまるで分かっていない学者が政策評価を教説しているのと同じである。あるいはまた、首長や管理職が「意識改革が重要である」と訓示して、その意識改革を研修所に期待する、あのよく見かける愚かさと同じである。
「地方の公務員」と名乗ってきた職員の意識の深層に堆積したものを問題にしない意識改革論は何も語っていないのと同じである。

3.能カはいかにして育つか
 人材養成・能力開発・人づくり、という言い方がなされる。しかしながら、人は他者によって養成されるのであろうか。人材養成や能力開発の学校、研修所、訓練所、セミナーは数多くある。産業社会は規格化した能力を必要とするからである。だが、自治体が必要としているのは養成され開発された部品的能力ではない。
行政は「組織づくり・施設づくり・指導者づくり・人づくり」と無反省に言明する。行政が住民を啓発し教育し指導することができると思っているのである。だがしかし、行政はぬるま湯で、責任回避で、無難に大過無くが実態 ではないか。その行政に指導者を養成する能力などありはしない。 
人は自らを育てるのであって他者に育てられるのではない。人は課題に直面して躊躇逡巡しながら行動を開始するのである。行動すれば不協和音に取り囲まれ非難と中傷を浴びて孤立する。辛い思いをして中止しようかと迷う。ときに失敗しときには成功する。失望し模索しながら行動するその過程で人と巡り合う。そして、課題を実現し達成したとき体内に沸き上がる喜びを体感する。そのようにして人は育つのである。
 自らを育てるというのは言葉の綾であって、人は不利益(リスク)を覚悟して行動を開始し、困難を乗り越えて変わった自分を眺める。不利な状況のなかで工夫したからものごとが見えてくる。視界が開けて発想が柔軟になる。それを、自らを育てたと言うのである。
 挫折体験が貴重であると言われているのは、挫折体験のない人には分からないことが分かるからである。出世コースから外れることを何よりも不幸だと内心深く銘記している「自称前向き公務員」は不利益を覚悟して行動することはない。だから視野も広がらず感性も豊かにならない。
都道府県の総務・管理部門にはこのテの自称前向き公務員が多い。自身は常に安全地帯にいて「仕事は組織でするのであって個人行動はよくない」などと、情熱のある現場職員を中傷して意欲を萎えさせるのである。行政内の主流にいる人達の最優先価値は人事昇進である。公務員は勤勉で人間性もよく才能のある人も多い。だが、組織の一員になると感覚も発想も公務員になってしまう。
この観方には厳し過ぎるとの反論もあるであろう。しかし、自治体職員の能力とは何かを考えるためには行政の現状況を厳しく点検すべきである。省庁政策に従属してきた地方公務員の意識を自覚的に払拭しなくてはならないからである。
まちづくりの先進地域には困難を切り拓いた人(キー-パーソン)が登場している。今、自治体職員に求められている能力は困難と不利益を覚悟して行動するキーパーソンの能力である。
地域に文化を根づかせている市民運動に行政が関与すると、間違いなくその運動をダメにしてしまうと言われている。なぜであろうか。
 自治体職員の能力を考えるのならば、この問いに答えることである。
なぜ、行政が関与すると市民文化運動はダメになってしまうのか。この問いに答えることができなければ、あるいはこの問いの意味が分からなければ、「企画力」「計画力」「調整能力」などの言葉をいくら並べても無意味で無内容な回答である。
 行政の現状況に対する厳しい「問い」と「否」の認識なくしては、自治体職員に求められている能力とはどのような能力であるかを思考することはできないであろう。

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