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「憲法改正の論議」に思う

 自治体政策研究所は、岩波「世界」の月例・読書研究会を公開で行っている。 
 下記は(13・4)研究会に提出された研究所員の所見である。

  憲法改正の議論に思う     湊谷宣夫

 安倍内閣になって「憲法改正の論議」が盛んである。
 憲法<改正>を言うのなら、現憲法の何が良くないのか、どこが時代に合わないのかを明確にすべきである。
 それとも、改正を主張する論拠は「GHQに押しつけられた」だけであるのか。

 まずは、日本国憲法制定の過程や背景をふり返るべきである。
 1945年8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち日本占領が開始された。
 ポツダム宣言では、「日本国民の自由に表明せる意志に従い、平和的で責任ある政府が樹立されたとき占領が終わる」とされている。
 マッカーサーは、この原則に従い、日本人の自発的な憲法改正を望んでいたという。
 しからば、当時の日本政府の認識はどのようなものであったか。
 NHK・ETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」を基にふり返ってみたい。

 日本政府の認識
 1945年9月5日、帝国議会で東久邇宮首相が「戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説」を行った。「・・御詔書にも御諭しを拝する如く、我々国民は固く神州不滅を信じ、如何なる事態に於きましても、飽くまでも帝国の前途に希望を失うことなく、何処までも努力を盡さねばならぬのであります・・」。 首相の認識はこのようなものであった。
 東久邇宮内閣の山崎巌内務大臣は「反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張し、司法大臣は政治犯の釈放を否定していたのである。

 10月4日、GHQは日本政府に対し「人権指令」を発し、政治犯の釈放、治安維持法の廃止、言論統制の撤廃、天皇に関する制限のない議論、特高警察職員らの解雇を命じた。東久邇宮内閣は「この指令を実行できない」として翌5日に総辞職した。
 10月10日、次の幣原内閣は、指令に基づき政治犯約3,000人を釈放し、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。
 10月11日、マッカーサーは幣原首相との会談で、秘密警察の廃止、婦人参政権付与、労働組合の奨励、教育の自由化、経済機構の民主化の5大改革を指令し、ポツダム宣言実現には、疑いもなく「憲法の自由主義化(憲法改正)」が含まれる」と伝えた。

 そこで、幣原内閣は東大教授、法制局官僚らからなる憲法問題調査委員会(委員長国務大臣松本烝治)を設置した。だが「憲法改正の必要があるかどうかを学問的に調査する」というものであった。 
 このような「政府の鈍い動き」とは別に、憲法の改正を真摯に考えていた在野の日本人がいた。

 憲法研究会
 10月29日、高野岩三郎の呼びかけで「日本文化人連盟設立準備会」が設立された。
 高野は当時73歳、元東大教授で戦前は大原社会問題研究所で貧困、失業等の社会問題の解決に取り組んできた。 敗戦後、高野は新しい日本文化の創造を掲げ、デモクラシーとヒューマニズムに基づく国家建設を訴えた。
 この日本文化人連盟設立準備会に憲法学者鈴木安蔵も出席していた。
 鈴木は高野から「憲法改正を国民的運動にしなければならない」と働きかけられた。
 この出会いをきっかけに「憲法研究会」が結成された。(会員7人)

 鈴木が高野に出合う少し前の9月、鈴木宅をカナダ人の近代史研究家ハーバート・ノーマンが来訪した。カナダ政府からGHQに派遣されていたノーマンは、在日した戦前から、鈴木とは旧知の仲であった。
 鈴木はノーマンの「根本的な国体の批判が日本民主主義化の前提ではないか」「このままでは再び国家主義的風潮が強化される危険がある」との意見に、憲法問題の根本的再検討の必要性を痛感した。

 高野岩三郎と鈴木安蔵
 鈴木安蔵は当時41歳。京都大学在学中に治安維持法違反で退学し収監された経験を持つ。その経験から、国家の根本は憲法にあると考え、独学で明治憲法制定の歴史を研究した。その過程で大正デモクラシーを牽引した政治学者吉野作造の知遇を得て、明治の自由民権運動家・植木枝盛(民権自由論1880年)を知る。
 植木の憲法草案には、「国家は人民の自由を守るためにこそある。そのために憲法が必要だ」とする「主権在民の思想」がすでに盛り込まれていた。 

 「憲法研究会」には、高野、鈴木のほか、
 ・岩淵辰雄(51歳、政治評論家、戦時中、戦争の早期終結を工作し、憲兵に逮捕された)
 ・室伏高信(53歳、政治評論家。戦後いち早く雑誌「新生」を発刊、大正時代はデモクラシーを掲げて論壇にデビューしたが、軍部批判をして戦時中執筆を禁止されていた)
 ・馬場恒吾(70歳、言論界の重鎮、国際平和主義を掲げた。英字新聞記者出身。徹底した自由主義的評論で大正時代から有名だった。戦争中執筆の場を奪われていた)
・ 森戸辰男(56歳、社会政策学の研究者、戦前、失業や貧困を研究。言論弾圧により東大を追われ単身ドイツに渡る。第一次大戦後のインフレ失業の中、生存権を国家が保証すべきだとしていたワイマール憲法に注目した)
 ・杉村孝次郎(64歳、文化人連盟に参加していた文芸評論家)が参加した。 

 11月5日の第1回憲法研究会から第3回までは「憲法の根本原則」を論議し計5回の会合がもたれた。1945年12月26日、鈴木がまとめた全58条からなる「憲法草案要綱」が発表された。「国民主権」や「生存権規定」なども盛りこまれた憲法草案要綱に、GHQのスタッフが注目した。 草案要綱の完成度の高さはGHQを驚かせるものであった。

 憲法改正の三原則
 一方、<学問的に調査していた>政府改正案はどのようなものであったか。
 1946年2月1日、毎日新聞が「松本試案の中身が<君主国>である」ことをスクープした。GHQはこのスクープ記事を読んだであろう。
 二日後の2月3日、マッカーサーは、日本の憲法改正に際して守るべき三原則、いわゆるマッカーサー・ノート(天皇は国家の最上位、国権の発動たる戦争廃止、封建制度の廃止)をホイットニー民政局長に示し、「GHQ草案の作成」を指示した。日本政府には自発的に「民主的な憲法改正案」を作れないと考えたのであろう。
 2月11日、11章92条からなるGHQ草案が完成。
 2月13日、ホイットニー民政局長は、外務大臣官邸で吉田茂、松本烝治に草案を提示し、これを受け入れないなら「GHQ草案を直接国民に問うことになる」と迫った。

 3月6日、GHQ草案に沿った「憲法改正草案要綱」が発表され、6月の帝国議会で審議された。
 衆議院、貴族院で反対したのは、共産党所属議員を含めたった8人のみであった。
 審議過程で、憲法研究会の一員でもあった森戸辰男(衆議院議員)が「生存権」の追加を提案し、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の第25条が追加され、11月3日、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」を三大原則とする「日本国憲法」が公布された。(国会で審議し議決したのである)
 
 日本国憲法は以上のような過程をたどって制定されたのだ。

 戦前の、知識人の弾圧も、戦争突入の決定も、全て天皇を冠した君主制の下で、国民から遠いところで「国策を操る者」が存在したから可能だったのだ。
 そして「操る者の拠り所」が「大日本帝国憲法」にあったから、「憲法改正」が必要であったのだ。
 明治の民権運動から大正デモクラシーに至る過程で、吉野作造、福田徳三、河上肇たちの先駆者が、主権在民や生存権などを主張して国民を啓蒙していたのである。
 往時のこれらの記憶が日本人の心に残っていたから、憲法改正の国会審議も順調に進み、国民も受け入れたのである。ホイットニーが吉田と松本に、「GHQ草案を国民に問う」と迫れたのも、そのような背景があったからである。憲法研究会の憲法草案要綱はGHQスタッフのラウエルの手に渡り参考にされた(NHK特集)。

 戦争は、戦後日本を動かしたであろう有能な青年世代の多くを消し去った。
 若者たちを戦争に駆り立てた者の拠り所は、君主に名を借りた国家統治権にあった。
 戦前・戦中の弾圧を生き延びた先人が現憲法をつくったのだ。
  それを銘記すべきである。

  憲法は政府への命令書
 日本国憲法第99条の意味を知らずして『憲法に<国民も憲法を守る義務がある>と記載すべきだ』と主張する無智な国会議員もいる。
 『憲法は為政者が守るべきものとしてあるのだ』
 『日本国憲法は国民の自由・権利を保障するために作られたのだ』

 多くの国民が胸を張ってこう言うべき時だと思う。 
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